輝かしい経歴
挫折のプロキャリア、通訳時代
モウリーニョは優れた選手ではなかった。ポルトガル2部でプレーした後に引退。彼はリスボンの大学に進学し、スポーツ科学を学び指導者としてセカンドキャリアを歩むこととなった。
その後、ユースチームなどの監督を渡り歩きながらスポルティングCPのロブソン監督の通訳として信頼を獲得すると、彼ともにポルト、バルセロナへ渡航する。ロブソン監督がバルセロナを去った後も、ルイス・ファンハール監督のもと、アシスタントコーチを務めた。この時代に稀代のライバル関係となるペップ・グアルディオラと会うこととなる。
歴史を切り開いたポルト、チェルシー時代
バルセロナのアシスタントコーチとして活躍していたモウリーニョは2001-02シーズンの途中からポルトガルの名門であるポルトの監督へと就任。当時リーグ戦でも低迷していたポルトの選手にこう言い放つ。「来季の国内リーグを優勝するのは俺たちだ」。当時チームの中心人物であったデコはその言葉に耳を疑ったがモウリーニョの言葉は現実となる。
2002-03シーズンに入るとモウリーニョポルトは国内リーグを無双。UEFAカップまでも獲得する。続く03-04シーズン、モウリーニョは信じられない偉業を達成する。当時ダークホースにすぎなかったポルトのチャンピオンズリーグ制覇だ。ポルトの優勝は誰も予想できなかっただろう。当時エースストライカーだったデルレイが全治半年の大怪我を負うというアクシンデントにも関わらず、チームは準決勝まで勝ち進む。そこで巧みなモウリーニョのマネジメントによって復活を遂げたデルレイの活躍もあり、決勝でデシャン監督率いるモナコに勝利したのだ。
その後イングランドへ行ってもモウリーニョのセンセーショナルな活躍は続く。チェルシーを50年ぶりのリーグ優勝に導くと、勢いそのまま連覇を果たす。1年目から当時のプレミアリーグ最多勝ち点、最小失点記録を達成するというとんでもないおまけ付きだ。チェルシーの快進撃は3シーズン目も続き、惜しくもリーグ優勝は逃したもののFAカップ、リーグカップを獲得。
しかし、チーム補強方針と意見が食い違い、クラブとの間に軋轢が生じる。オーナーのアブラモビッチはモウリーニョ解任を発表。モウリーニョの解任の際にはランパード、ジョン・テリーらの時代をときめくスーパースターたちが床にうずくまり涙を流していたとの話もあった。愛されつつもモウリーニョのチェルシー政権第1章は終わりを迎えてしまう。
栄光のインテル、激闘のマドリード
End of an era for one of the football’s greatest ever. Hard to see big club go for him after failures. If ESL thing happens it will be end of an era for many young Mourinho type managers too. Who would win UCL with Porto or would guide Inter for a treble against Europe’s best. pic.twitter.com/aRrFUs4ppi
— Nimesh (@Bobby_Axelrodd) April 19, 2021
活躍の場をインテルに移したモウリーニョ。彼の活躍はもはや自明であった。長らく連れ添ったアシスタントコーチとともにイタリア初上陸すると、記者会見の場で関係者を驚かせた。彼はイタリア語で記者会見をし、「3週間でイタリア語は学んだ」と驚きの発言。選手とのコミニューケーションを大事にするモウリーニョの姿勢はここにも現れていたのだが、わずか3週間で公の場でイタリア語を披露するのはスペシャルワンならではの仕事ぶりだ。
1年目から積極補強し、インテルにスクデット獲得をもたらすもチャンピオンズリーグで低調なパフォーマンスを見せ、一部インテルファンからは失望されてしまった。しかしここから盛り返すのがモウリーニョ流。2年目に突入すると「このメンバーでCLを獲得できなかったら世界中の笑い物になる」と冗談混じりにモウリーニョが語るように、凄まじい個を融合したチームは欧州の舞台で輝きを見せる。ジュリオ・セザール、サネッティ、ディエゴ・ミリート、マイコン、エトー、ルシオ、カンビアッソ、チアゴ・モッタ。もはやインテルには一つにチームを除いて敵なしに思えた。
唯一当時のインテルに対抗できるとされた、当時ポゼッションサッカーを更なる次元に引き上げていたペップバルサとCL準決勝で激突。ファーストレグを0-1で落とすも(モウリーニョは後にこの試合を「私の人生で最も美しい敗戦」と語った)、セカンドレグで2-3とアウェーゴールの差で劇的な勝利。事実上の決勝戦に勝利したインテルはもはや世界最強だった。バイエルンとの決勝戦は狡猾なディエゴ・ミリートの2ゴールで危なげなく勝利。インテルはイタリア史上初、前人未到の3冠を果たしたのだ。
レアル・マドリードに就任すると新銀河系軍団をうまくまとめ、4年連続CLベスト16止まりだったチームをベスト4まで押し上げた。さらには当時のラリーガの最多連続勝利記録も打ち立てるも、悲願のチャンピオンズリーグ獲得には至らず。それでも史上最強のペップバルサと互角にはりわたり、国王杯では直接対決に勝利し、バルサのトレブルを防いだ。さらにはラ・リーガも制し、上々の結果に。しかしモウリーニョ鬼門の3年目では結果を残せず、白い巨人から去ることとなってしまった。
帰ってきたプレミアリーグ!
チェルシー時代はスタンフォードブリッジでのホーム無敗記録77戦無敗を樹立。さらにリーグカップとプレミアリーグ優勝に導き、流石の手腕を発揮した。15-16シーズンではわずか3敗しか喫せず、圧巻の強さを見せるも、チャンピオンズリーグでの結果は泣かず飛ばず。しかし3年目はプレミアリーグ16試合で9敗してしまうなどとチームのパフォーマンスは不安定だった。またしても3年目のジンクスに泣かされ、解任となってしまう。
チェルシーを去ってわずか半年、プレミアリーグの地に再びスペシャル・ワンが舞い戻ってきた。選ばれたのはファーガソン退任後、崩壊しかけていた赤い悪魔だ。モウリーニョに課せられたタスクはチャンピオンズリーグ出場権とメジャータイトルだ。1年目から崩壊していたマンチェスターUにEFLカップとヨーロッパリーグの2つのタイトルを獲得。ヨーロッパリーグ優勝によって、チャンピオンズリーグ出場権を得るという裏技でタスクを見事に達成したのだ。翌シーズンは無冠で終わるが、リーグ戦では2位につけ、2年連続のチャンピオンズリーグ出場権を獲得。モウリーニョは後に「あのスカッドで2位につけたのが私のキャリアの中で、1番の功績」だと当時のチーム状況を皮肉っている。
トッテナム編について後にアップロードされる友人のトッテナム完全解説で取り上げるので楽しみにして欲しい。
続いてはモウリーニョ事件簿